地元大阪人がガイドする素顔の大阪城

豊臣大坂城の天守と再建後の天守閣

徳川時代の天守が落雷による出火で焼け落ちて以来270年間、大坂城は天守のない城でした。

そこで、昭和の初め、大大阪といわれて繁栄していた大阪市民が、日本一の大都市にふさわしいシンボルを作ろうということで築造されたのが、現在の天守閣です。

天守閣復興にあたって参考にされたのが、「大坂夏の陣図屏風(なつのじんずびょうぶ)」に描かれた豊臣大坂城の天守(写真↓)です。

<写真> 大坂夏の陣図屏風 大阪城天守閣蔵

大坂夏の陣図屏風

これは、夏の陣に参戦した黒田長政が戦の様子を描かせたもので、現在のところ、最も正確な描写と考えられています。

当時の大阪人は、大阪城といえば「太閤さんのお城」と信じ切っていましたから、再建するなら豊臣時代の天守しかあり得なかったのです。

しかし、天守閣の土台となるべき天守台石垣は、徳川時代の大坂城のものです。豊臣時代の天守とはサイズが違います。

それゆえ、5層屋根の外見はそれらしく似せたものの、全体的に横に広がった、かなり屏風図とは異なったフォルムになっています。

それよりも不思議なのは、屏風図では壁面は黒色なのに、再建天守閣は全面白壁になっていることです。これは、現在でも大きな謎の一つです。

一説には、日本人はお城というと白鷺城ともいわれる白亜の姫路城のイメージが強く、「天守閣は白でなかったらあかん」という主張が勝ったため、ともいわれます。

徳川時代の天守台に形だけ豊臣時代をまねた天守閣を乗せ、外見は事実と正反対の白壁にする・・・。大阪らしいといえば大阪らしい、ええかげんな話です。

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もくじ
大阪城の3つの意味
天守閣の由来
お城とはどの部分か
お城の曲輪と丸
大坂城の初代城主
大手門の枡形虎口
大阪城の桃園
徳川家康の天守砲撃
淀殿ら自刃の地
大阪城の西の丸庭園
真田幸村の抜け穴跡
豊臣秀頼は巨漢?
大坂城をつくったのは?
豊臣時代の大坂城
再建後の天守閣
石山本願寺「大坂城」
豊臣時代の石垣発掘抗
蓮如上人袈裟懸けの松
大阪城の3代目天守
大坂城の配水池管
普通の人々も戦った
大名屋敷と町名の名残り
細川ガラシア像
南外堀石垣の「謎の穴」
大河のような堀
白龍大神とは
天守閣の日本庭園
大砲・お城のドン
豊国神社の復興