地元大阪人がガイドする素顔の大阪城

お城の曲輪(くるわ)と丸の成り立ち

<写真> 『大阪城400年』大阪書籍、1982年、201頁。

『大阪城400年』大阪書籍

お城を築くときに最も重要なポイントは、「攻めにくい(逆にいうと、守りやすい)」ことでしょう。

そのためのくふうのひとつとして、お城の領域をいくつかのエリアに分ける手法が考えられました。こうすると、一気に攻め落とされる危険が減ります。

さらに、それぞれのエリアの地面を平らに整えて、堀や土塁(または石垣)、塀などで取り囲んで守るのです。

この一つ一つのエリアを曲輪(くるわ、廓とも)と呼んでいます。

近世の城郭では、主要な曲輪のことを「丸」ともいいます。そのなかでも中心の曲輪を"本丸"、ついで"二の丸"、"三の丸"などと名付けています。

これが基本ですが、近世城郭では、さらに多くの曲輪が設けられるようになりました。

たとえば、「西の丸」、「北の丸」といった曲輪もありますし、また、用途や特徴に応じて「人質曲輪」や「山里曲輪」などと呼ばれる曲輪も作られれました。

姫路城には「腹切丸」という名前の小さな曲輪があります。ぎょっとする名前ですが、実際に切腹する場所ではなかったそうです。

ちなみに、近世城郭というのは、1576(天正4)年から江戸初期・寛永年間(1624−1643)頃に築城された平山城(ひらやまじろ)または平城(ひらじろ)のことをさしています。天正4年は、織田信長が安土城築城を開始した年です。

近世城郭は、壮大な高石垣(たかいしがき)をめぐらせて日本初の本格的な天守をもつ安土城から始まるといわれます。

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もくじ
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お城の曲輪と丸
大坂城の初代城主
大手門の枡形虎口
大阪城の桃園
徳川家康の天守砲撃
淀殿ら自刃の地
大阪城の西の丸庭園
真田幸村の抜け穴跡
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豊臣時代の石垣発掘抗
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