地元大阪人がガイドする素顔の大阪城

徳川家康による豊臣大坂城の天守砲撃

お城を築くにあたって重要なことのひとつは、一見、相対的に守りが手薄のように見える方向を作ることです。つまり、「守りはここが弱いから、ここを集中的に攻めてネ」と敵にささやくのです。

当然、攻め手はそこを攻めてくるだろうから、守りもそこに集中し、一気に打撃を与えようというもくろみです。

そんなことは攻め手も承知のはずですが、敵城の防備について詳しい情報がなければ、わかっていてもそこから攻める以外に方法がありません。

そのリスクを避けたければ、兵糧攻めしかないでしょう。しかし、兵糧攻めには時間、すなわち出費がかさむので、いつでも誰でもできるというものではありません。

豊臣大坂城は南側が攻め易いように見えます。大坂冬の陣でも、徳川家康は南側に本陣を置いて攻めています。

しかし、秀吉が総力を傾けた大坂城はびくともしない。しびれを切らした家康は、大砲(おおづつ)100門を城の北側の備前島に並べてやけくそのように撃ちまくったといいます。

大坂城の北側は、2重の堀と旧・大和川にさえぎられて攻め入るのは難しいのですが、そのぶん、最前線の防御ラインから天守までの直線距離が近かったのです。

それで乱射した砲弾の1発がたまたま天守の2階の屋根を貫き(当時の砲弾は破裂しない)、そこにいた淀殿の侍女が柱の下敷きになって即死しました(着弾場所には諸説あります)。

これに動揺した淀殿が即、和議を決意したというのが巷説に伝えられるところです。

備前島の砲撃位置は定かではありませんが、備前島が京橋の北側にあったことから、そこからの光景は恐らく、下の写真に近いものだったと思えます。

<写真> 京橋北詰(元・備前島)から天守閣を臨む

天守閣

豊臣大坂城の天守は写真の現・天守閣より左(東)の位置にありましたが、距離は同じようなものです。当時、家康もこんな光景を見ていたのかもしれません。

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もくじ
大阪城の3つの意味
天守閣の由来
お城とはどの部分か
お城の曲輪と丸
大坂城の初代城主
大手門の枡形虎口
大阪城の桃園
徳川家康の天守砲撃
淀殿ら自刃の地
大阪城の西の丸庭園
真田幸村の抜け穴跡
豊臣秀頼は巨漢?
大坂城をつくったのは?
豊臣時代の大坂城
再建後の天守閣
石山本願寺「大坂城」
豊臣時代の石垣発掘抗
蓮如上人袈裟懸けの松
大阪城の3代目天守
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普通の人々も戦った
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南外堀石垣の「謎の穴」
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豊国神社の復興