地元大阪人がガイドする素顔の大阪城

豊臣秀頼は巨漢だったという説

豊臣秀頼というと、つい写真のようなナヨッとした優男を想像しがちです。

<写真> 豊臣秀頼の肖像画 (江戸時代 養源院所蔵)

豊臣秀頼の肖像画

秀吉の晩年に生まれた秀頼は、秀吉に溺愛されて過保護の極みに育てられたということから、軟弱でひ弱な人物を考えてしまうのです。

この秀頼、幼少時は伏見城、秀吉の死後は大坂城に移ります。この間、秀頼が城の外へ出たのは2回だけで、転居の時と二条城で家康と会見したときだといわれています。

危急存亡の大阪夏の陣においてさえ、家臣が出馬を強く要請したにもかかわらず、秀頼は桜門まで出たものの、すぐに御殿に引き返しています。(秀頼の馬印と幟だけは、今の法円坂付近まで「出陣」したそうですが。)

しかし、優男のイメージは間違っているかもしれません。同時代の複数の資料に「秀頼は超肥満だった」とあるからです。

直接会ったと思われる人によって、「非常に太っていて自由に身体を動かすことができない」とか「世になきお太り」などと書かれています。

出典は江戸中期の本ですが、「身の丈六尺五寸余り」つまり、身長が2m以上あったとも記述されています。要するに、かつての小錦(現・KONISHIKI)をさらにひと回り大きくした巨漢だったということです。

長身については、秀頼の母親である淀殿が、当時の女性としては非常に大きい170p近くあったという説もありますから、あり得る話でしょう。(ちなみに、父親の秀吉は小柄で、150pほどだったといいます。)

<写真> 淀殿の肖像画 (江戸時代 奈良県立美術館所蔵)

淀殿の肖像画

考えてみれば、御殿内であまり運動することもなく、飽食三昧の生活をしていれば肥満になるのは当たり前です。

大阪夏の陣のさいも、桜門まで出るのがやっとのことで、秀頼の息があがったのではないでしょうか。または馬がバテてしまったために(あるいは両方)、やむなく引き上げたというのが本当のところかもしれません。

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大坂城の初代城主
大手門の枡形虎口
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徳川家康の天守砲撃
淀殿ら自刃の地
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真田幸村の抜け穴跡
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豊臣時代の石垣発掘抗
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